6/28/2010

慰靈和歌五萬首

谷野教授提供的新資料

神戸新聞
(高田康夫 2010/6/17):

短歌につづる戦友の死 25年で45冊、5万首に

小野市脇本町の山本國弘さん(86)が、太平洋戦争で亡くした戦友を思い、短歌をつづり続けている。自筆の冊子を作り始めて四半世紀がたち、45冊 約5万首にもなった。誰に見せるためでもない。ただ南洋に散った友人への思いを、一筆一筆に込め続けている。

 〈戦傷の一月 十二日巡り来る藻屑となりし戦友を想へり〉

 1945年1月12日。徴兵で海軍に入り、輸送船「神靖丸」の砲術員として南洋に向かった山本 さんは、ベトナム南部のサンジャック岬沖で米軍と遭遇。空を埋める艦載機約250機の爆撃を受けた。

 〈君は散り我は傷つき上陸たる南部仏 印灼熱想ふ〉

 神靖丸は3時間ほどで沈んだ。山本さんは海へ飛び込み、九死に一生を得た。船団を組んでいた83隻は撃沈され、周りで生き 残ったのは5人ほど。「せめて遺骨だけでも」と浮き沈みする戦友の遺体を抱え、海の中を約10時間さまよった。そして、ベトナム南部に上陸した。

  〈国のため受けし重傷耐え忍び他人に負けじと趣味に凝りつつ〉

 山本さんは大砲の爆破音でほとんど耳が聞こえなくなった。復員し、出身地の 小野市で農業を営なみ始めた。短歌は75年から習い始め、85年から自筆で文集を作り始めた。毎朝2時間ほど筆でしたためる。戦争体験以外にも、これまで 取り組んできた山林づくりや農業についても短歌を詠む。

 〈生かされて今戦いの悲惨さを語り継ぐのも己が使命〉

 今年で戦後 65年。山本さんは市傷痍軍人会の会長を務めるが、すでに同会の会員は11人しか残っていない。山本さんはつぶやく。「認知症予防のためと、戦争で亡く なった人のことを残したいという思いだけです」

高齡86居住小野市脇本町的山本國弘先生為了追思在太平洋戰爭中陣亡的戰友,在過去1/4世紀中,手抄了45冊共5万首自已創作從未公開的和歌,一筆一劃的紀念他在南洋散失的友人.

被征召入海軍任砲術員的山本先生,服役于向南洋航行的運輸船神靖丸,1945年1月12日在越南南部聖雀岬被滿佈天空的250架美軍航艦飛机轟炸.

神靖丸在3小時內沉沒,山本跳入海中,九死一生逃出虎口.同一船團共83船隻被擊沉.與山本一起倖存的5人,載浮載沉,10小時後才在越南南部登岸.

山本己因大砲的爆破聲而失聰.退伍後在老家小野市務農.他在75年開始學詩,85年開始自錄文集.每晨寫作2小時.除了戰爭体験外,還有農業和山林的主題.

今年乃戰後65年.山本是該市傷殘軍人會會長,但會員己陸續凋零,現只剩11人.山本自己則覺得是"紀念戰歿人還可以防失智吧".

6/14/2010

朝日新聞 1953/1/19

所以日本在1953年開始在各地陸海戰場收回陣亡人員.訓練艦日本丸的第一次遠洋任務就是到太平洋"南方八島"[*] 引取遺骨及慰靈.下面是朝日新聞登載的在東京港歡送出航盛況.其中有遺族代表2,000人,加上領先隊伍的500男童軍鼓笛樂隊吹奏"螢の光 [aka Auld Lang Syne]".日本丸預定航行51日,行程5,737海哩.

日本丸

朝日新聞 東京版 昭和28年1953年)1月19日 月曜日 12版 7面
日本丸あす出航 遺族2千の見送り受け

 南 方 八 島 の遺骨引取りと慰霊に向う航海訓練所練習船日本丸(2, 284㌧ = 船長木村文治氏は、31日午後2時、全国数十万遺家族のおもいを乗せて東京港を出発、当日は陸と海に盛んな歓送が行われる。

 出港を前に午後零時45分、宇野南方派遣団長以下18人の派遣団員、更に木内船長以下職員、練習生など約180人が甲板に集合、石井運輸相は日本丸乗組員に対して、山県厚相は派遣団員に対してそれぞれ壮行の言葉をおくる。そのころボーイスカウト東京連盟員約500人を先頭に約2000人の全国遺家族が竹芝サン橋に集り、ボーイスカウトの鼓笛隊が「ホタルの 光」を吹奏、2時(予定より1時間繰上げ)日本丸は岸壁を離れ、全航程5737カイリ、51日間の船旅に出る。
[*]南方八島: マーカス島 (Marcus Island)、ウエーク島 (Wake Island)、サイパン島 (Saipan)、テニアン島 (Tinian Island)、グアム島 (Guam)、アンガウル島 (Angaur)、ペリリュー島 (Peleliu) および硫黄島 (Iwo Jima) 。